江戸時代、海苔は幕府の財源を支える専売品であり、生産を許されていたのは江戸と広島の二箇所だけでした。
広島湾では本格的な海苔養殖が行われ、海苔の二大産地として全国的に名を轟かせていました。
江戸後期に専売制が廃止されてからも、広島の海苔養殖は大きく生産を伸ばしました。
明治時代には、開拓により干潟が減少したものの、川筋での養殖に移行しながら、明治から大正中期にかけて西日本で一番の産地として発展していきました。
十八歳の國光百次郎は、海苔や魚を買い付け、
大八車で売り歩きながら、病弱な父に変わり生計を支えました。気丈で心根の強かった百次郎は、当時ではめずらしい現金商売をすることで、強気な漁師たちとも対等に渡り合いました。
当時は、まだ海苔は行商する時代。軽くて運びやすく、日持ちが良く、栄養もある海苔は、大きな商いになると直感し、明治十八年に自分の名前を一字使った「マルヒャク」の商標で広島の地に海苔問屋の先駆けとして創業しました。
西日本最大の産地である広島の海苔を、大阪天満市場に持ち込み、そして全国へと流通させていき、広島の海苔商の礎を築きました。
広島の海苔の生産を大きく伸ばした明治から大正中期は、まさに海苔商の繁栄期。
当時、広島で唯一入札権を持っていたマルヒャクは、海苔問屋として海苔を買い付け、海苔商たちに売るという、中四国の海苔業界のリーダ的な役割を担っていました。
百次郎の息子である二代目 國光誠一は、父譲りの商才を発揮。百次郎の想いを受け継ぎ、次々と分家していき、広島に海苔商を増やし、海苔業界の発展と拡大に尽力しました。
時代の流れとともに、海苔商たちは加工海苔の製造に方向転換をはじめましたが、問屋として、仲間である海苔商たちと市場を競い合いたくないとの思いから、広島ではなく、あえて四国での味つけ海苔の販売をはじめました。
そこから、老舗としての味付け海苔へのこだわりが強くなっていきます。
広島に海軍の拠点があったことも、広島の海苔の発展に大きく影響しています。
海軍では、老舗であるマルヒャクの海苔は指定商品として認定され、多くの小売店でマルヒャクの海苔が販売されるようになりました。
当時は海軍が持っていくために湿気を防ぐガラス瓶に入った海苔が主流でした。密封性の高い海苔の瓶にビスケットなどを入れる海軍の習慣が一般家庭へと広がり、梅酒や梅干しをつける瓶として流用されるようになりました。
瀬戸内の海の恵である牡蠣と海苔、ふたつを合わせた広島の味として誕生した「かき醤油味付のり」。商品化から四半世紀、県内外の多くのみなさまに親しまれるロングセラー商品へと成長いたしました。
創業 明治十八年の老舗ならではの目利きで選び抜いた上質の素材と、代々受け継がれたマルヒャクの秘伝のタレと出汁にこだわり、伝統の味を全国にお届けしています。